時計の裏蓋へ波を打ったような彫り模様、「エングレービング」は時計や貴金属の地金を装飾する手法です。最新テクノロジーが普及した現代においてもエングレービングは時計文字盤を彩る重要な装飾方法になります。
今日は伝統的な時計文字盤や裏蓋の装飾法である、エングレービングを詳しく解説していきます。
エングレービングは日本語では「彫金」と呼ばれる工芸技術です。中世ヨーロッパで発生した伝統技法で、彫り師が地金の枠を取り丹念に微細な線を浮き彫りにします。時計でも高級腕時計ほどよく使われ、エングレービングによって時計をワンランク上の製品に仕上げることができます。
つまりエングレービング は高級品に対する装飾として普及していくのでした。そのため実用的な物では無く、あくまでも「飾り」だったのです。
時計にエングレービングが彫られるようになったのは16世紀頃からです。最初は懐中時計の裏蓋やケース全体に彫られました。
懐中時計が発明された頃、時計は貴族や権力者たちが手にする非常に高価な品物でした。
全てオーダーメイドの高価な品物で、庶民が手に入れられる物ではありません。当然それにふさわしい豪華な装飾を施し、芸術品さながらに仕上げられていました。
懐中時計はケース径が大きくエングレービングを施すには最適です。そのためケース全体に彫る「ケースアート」と呼ばれるものが当時最も多く見られています。
エナメル塗装が塗られ、綺麗で芸術的な模様が描かれていました。懐中時計時代に広く使われていたケースの素材は金素材であったことも彫金師にとって好都合でした。
また内部の機械部品も部品ひとつひとつが大きく、エングレービングは装飾以外に当時は部品の研磨と軽量化も兼ねていたことも考えられます。
しかし時計製作期間のこと、手作業だと製作期間がさらに長期になり、決して効率的ではありません。
初期の頃のエングレービングは全て手作業による物でした。
しかし時計に彫るエングレービング が浸透し始めて、徐々に大量生産の必要性が出てきました。その頃出てきた新しい技巧が1719年ブレゲの発明した「ギョウシェ彫り」です。
現代は多くのギョウシェ彫りが機械によって規則正しいパターンで文字盤に溝を彫る技法になっています。
初めの頃ギョウシェ彫りは他のエングレービングと同じ手作業でした。それが手動旋盤で彫るようになり、後に電動旋盤により大幅に量産化ができるようになります。
結果この手法が多くのブランドで採用されるようになります。このギョウシェ彫りのメリットは文字盤を装飾するだけではありません。
文字盤に施された溝によって光の反射が抑えられ自然光の下でも時間をスムーズに読み取ることができます。またデザインパターンを組み合わせることによってはさまざまなパターンに仕上げることが可能です。
このようにしてギョウシェ彫りは時計の文字盤装飾では最もポピュラーなエングレービングへとなって行きます。機械旋盤で行うギョウシェ彫りが簡単に彫金ができる訳ではありません。しかし高度な技術は必要ですが、効率の良い作業が可能です。
今まで限られた人しか手に入れられなかったエングレービングがこれにより身近となったことで、徐々に人々へ受け入れられるようになりました。このように「ギョウシェ彫り」は時計の天才ブレゲが遺した大きなレガシーと言えるでしょう。
引用:https://www.lang-und-heyne.de
しかし伝統的な手作業によるエングレービングが不要になった訳ではありません。
手作業でしか表現できないエングレービングはより芸術性の高い手法として現代に引き継がれます。
そのため21世紀の現代では一般にエングレービング は手作業の「ハンド・エングレービング」を指すことが多いです。ハンドエングレービングは手作業でしかできないため、徹底的に芸術性にこだわっています。
また彫る以外にも徹底的に色や豪華な素材をたっぷり使いエングレービングだけを際立たせないようにしていることが特徴です。
例えばエナメル装飾の絵を描いたり真珠装飾も施しています。エングレービングは主役でなく脇役でも無いのです。
ハンドエングレービングの特徴は同じ物がありません。基本下書きをしないで、一気に彫り上げることで、彫ったラインは再現できません。
20世紀に入り時計は懐中時計から腕時計へと変化します。
腕時計は本体が風雨にさらされることで、防水性や振動にも耐えられる堅牢なケースが必要です。これまでは加工に適した柔らかさを持ち腐食に強い「金」(Au)が懐中時計に多く使われてきました。
しかし、より耐久性が高いステンレス鋼が時計ケースとして徐々に使用されるようになってきたのです。
ステンレス鋼は表面の薄い被膜によって腐食しにくく、鉄をベースにしているため、鉄と変わらない機械的性質を持っています。
金属は硬くなるにつれて、一般的に脆くなりますが、鉄は粘りがあるため「堅く壊れにくい」性質を持ち合わせています。
ステンレス鋼は鉄(Fe)の他に、クロム(Cr)やニッケル(Ni)から成る合金です。
金属表面を磨く事で、鏡面仕上げをすることができます。使う人にとっても激しく動いても傷つきにくいため、腕時計にとっては理想的な素材です。しかしエングレーブする彫金師にとっては彫りにくく、厄介極まりのない素材でした。
堅く、懐中時計時代よりも厳しい条件下で行う腕時計へのエングレービングは彫金師にとっては効率も悪く、量産化する必要がある現代のウォッチブランドにとってはできれば避けたい物です。
そのため腕時計へのエングレービングはオプションで行うブランドが増えています。
しかし伝統的なエングレービング、特に工芸に近いハンドエングレービングを伝統工芸として大切に伝承しているブランドも少なからずあるのも事実です。それがAランゲ&ゾーネとパテックフィリップになります。
特にAランゲ&ゾーネは全てのモデルにエングレービングを施したパーツを使用していることが特徴です。
同社がエングレービングを使用している理由は純粋に美しく仕上げるためとブランドの復興者、ウォルター・ランゲは語っていました。
ハンドエングレービングを施した時計部品で組み立てた機械式時計は世界に二つと無い一点物です。
Aランゲ&ゾーネのエングレービングのこだわりは「見えないところでも手を抜かない事」にあります。
そして装飾であるエングレーブはムーブメントの動きを妨げ無いことも重要です。この考えはスティーブ・ジョブズのデザイン哲学とも共通します。
Aランゲ&ゾーネがエングレービングを積極的に採用する理由はグラスヒュッテに古くから伝わる伝統工芸だからです。
それはAランゲ&ゾーネのブランド復興前の懐中時計からも伝統的なハンドエングレービング を施した時計が多く発見されています。
Aランゲ&ゾーネの現代の彫金師たちもAランゲ&ゾーネのオリジナルの花模様が彫られています。エングレービングだけではありません。
それらの技法から成る部品の鏡面仕上げや面取り作業にも活かされています。「サンバースト仕上げ」、「ペルラージュ仕上げ」、「線彫り」といったステンレス鋼を彫る技法でAランゲ&ゾーネの腕時計は最高のクラフトとして世に出るのです。
ドイツではAランゲ&ゾーネ以外のブランドも小規模ですがハンドエングレービングを積極的に行っています。そのひとつが同社の出身者が興したブランド、ラング&ハイネです。
ラング&ハイネもAランゲ&ゾーネ同様に伝統技術を現代へ伝えています。
パテックフィリップのエングレービングはよりアート色が強い物です。
そのためエングレービングは図柄の中のひとつという位置付けになります。
そして同社は手動旋盤を使用したエングレービングをすることが特徴です。パテックフィリップに伝わる様々な手動工作機械が現存しています。
それらの機器を使用し部品をひとつひとつの向きを変えて、丁寧に場合によっては顕微鏡で確認し深さ0.03㎜の微細な線を正確に刻んでいるのです。
懐中時計時代に使われてきた、エングレービング は時代と共に変化してきました。
上流階級の持ち物であった懐中時計は徐々にそれ以外の人たちが使用するようになります。
特に航海士たちが使用するようになったことで装飾より精度の探究へ時計ブランドが注力するようになったのです。
そのためエングレービングは時計師の作業からエキスパートである彫金師へと移っていきます。
彼らが彫る物は芸術性の高い波模様の「ハンドエングレービング」が主力となります。彫金師はオンリーワンの時計を望む顧客への特注品を請け負うようになっていくのです。
しかし機械旋盤で行うギョウシェ彫りのような規則正しいパターンのエングレービングもクラシックウォッチで必要不可欠になります。
機械によるエングレービングは高級品はもちろんんのこと、カジュアルなモデルまで現代において幅広く機械式時計に幅広く使われています。
最近は部品を裏蓋を通して見えることができるシースルーバックが見直されていることもあってエングレービングは脚光を浴びています。
皆さんも自身の時計に施されている「エングレービング」にも注目して時計選びのきっかけにしてください。
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